中央公論
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この項目では、雑誌について説明しています。出版社については「中央公論新社」をご覧ください。

中央公論
1967年10月号
刊行頻度月刊
発売国 日本
言語日本語
出版社中央公論新社
刊行期間1887年8月 ? 現在
ウェブサイト ⇒http://www.chuokoron.jp/
特記事項創刊当初は『反省会雑誌』。1892年から『反省雑誌』、1899年から現在のタイトルに改称。
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『中央公論』(ちゅうおうこうろん)は、1887年に日本で創刊され、現在も発行されている月刊総合雑誌である。1999年までは中央公論社(旧社)、以降は中央公論新社が発行する。
歴史
反省会雑誌/反省雑誌

前身は、普通教校(西本願寺系、龍谷大学の前身)で高楠順次郎らの学生有志が禁酒と仏教徒の綱紀粛正を目的として1886年に組織した「反省会」の会員証を兼ねた機関誌『反省会雑誌』[1]禁酒を主張したり、青年の生き方を探る雑誌だった。1887年8月に第1号(首巻号)を発刊、同年12月10日から定期刊行を開始[2]1892年に東京に進出し、『反省雑誌』と改題(「会」の字がない)、口絵を尾形月耕月岡耕漁らが描いていた。

1890年には、反省会の創立から数えた(本誌の創刊からではない)「第5年第○号」という号数表記がなされるようになった[3]

なお、本誌の通巻番号は『反省会雑誌』の第2号から計算されている。『反省会雑誌』の第1号は雑誌自体に「第1号」と明記されているにもかかわらず、「首巻号」として通巻に算入していない[3]
中央公論(戦前)

1899年(明治32年)1月に『中央公論』と改題した。次第に宗教色はなくなり、小説や評論などを掲載するようになった。明治末に入社した滝田樗陰は、芥川龍之介菊池寛をいち早く起用した。

1912年(大正元年)11月号では平塚らいてうが「自分は新しい女である」と主張する意見を掲載。新しい女に関する議論が起きる契機となった。このため、翌年には文部省が「反良妻賢母主義的婦人論」であるとして取り締まりを行っている[4]。このほか、大正期には吉野作造の政治評論をはじめ、自由主義的な論文を多く掲載し、大正デモクラシー時代の言論をリードした。また、小説欄は新人作家の登竜門であった。

マルクス主義が流行し、1919年(大正8年)、より急進的な『改造』が発刊されると、中道的な路線となる。このころには、中央公論に作品が掲載されることは、人気作家の仲間入りと見なされるまでになった。

1938年(昭和13年)、3月号に石川達三の『生きてゐる兵隊』を掲載したところ、発売日直前に新聞紙法第23法に基づき発売禁止処分を受ける[5]。後日、発行人の牧野武夫、編集人の雨宮庸蔵が起訴され[6]、執行猶予付きの有罪判決を受けた。

第二次世界大戦中、横浜事件が起こる中で、1944年、軍部の勧告により『改造』と共に廃刊される。2月には編集方針が『改造』とともに左翼的であったとの理由で中央公論社からは小森田一記編集長ほか7人が検挙された。小森田は神奈川警察署の16畳の監房に26人が押し込められる劣悪な環境で1年7か月間勾置される間に起訴された。逮捕者は戦後の1945年9月15日、左翼的意図のもとに雑誌を編集したという理由で禁錮2年、執行猶予3年の刑を言い渡された。公判の後、判事は「近々恩赦もある、この辺で我慢してくれ」と申し入れたという[7]
戦後『中央公論』1964年3月号の新聞広告

終戦後の1946年に復刊した。現在に至るまで様々な評論、小説が掲載される総合雑誌として継続している。

1960年同誌に掲載された深沢七郎の「風流夢譚」のため、右翼によって社長宅が襲われ嶋中夫人が負傷、家政婦が死亡する事件が起こり(風流夢譚事件)、続けて同社が『思想の科学』の天皇制特集号の刊行をとりやめるなどして、天皇制への批判は同誌ではタブーとなった[8]

1970年12月号で創刊100号を、1985年1月号で「第100年第1号」をそれぞれ迎えた[3]

1999年、発行元の株式会社中央公論社が経営危機に陥り、旧中央公論社の出版・営業など一切の事業を読売新聞社(現・読売新聞東京本社読売新聞グループ本社)の全額出資で設立された新会社「中央公論新社」に譲り受ける(旧中央公論社は特別清算され、解散時の商号は『株式会社平成出版』と称していた)。これに伴い、読売新聞販売店でも『中央公論』を取り扱うようになった。

読売新聞グループの傘下に入り、当時の読売新聞社が発行する男性向け月刊総合誌である『This is 読売』(1990年創刊)があるものの、『中央公論』と同じ論壇誌がグループ内で競合することになったことから、『This is 読売』は1999年3月に廃刊され、『中央公論』が存続誌となったが、上記の経緯上それまでの『中央公論』における中道的論調は排され、『読売ウィークリー』などにおける読売新聞社系雑誌の論調であった右派保守的な色彩を帯びるようになった[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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